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ヴィトゲンシュタインが「私は、私の世界である。」と言っていました。
僕も、そう思い、僕なりの言葉で言ったことがあります。
私が見ているもの知っているものが私の世界であり、私の世界では、様々な人、ものがあり、様々なことが起こっているのです。
たとえなにがあろうとこれは、私の世界なんだ。
これは私の世界だとしたら、世界の外は私の知らないことだ。
人は見てなくても遠いもの、宇宙や外国を知ることができる。
たとえ何があろうと、これは「私の」世界なんだ。なにがあろうと、いくら恐怖の出来事があろうと、それは私の世界の「世界的」出来事なんだ。
どんな出来事も無から突然出現したわけではなく、「私の世界」で生成された出来事なんだ。
「私の世界」には他の人もいる。他人や友達、恋人もいる。
「私の世界」には自分の家、自分の家の家具、テレビやタンスもある。
アブリルラヴィーンにmy worldという曲がありますが、これは僕が言っているようなことを歌った歌詞のように思います。
人口数千人の村に生まれ、その村で暮らすアブリルラヴィーンは、自分の村、家こそが「世界」だった。
今では、アブリルラヴィーンはその当時からは信じられない広大な世界で生きているかも知れません。
アブリルラヴィーンの曲を2曲紹介したいと思います。
my world
sk8er boi
苫米地英人宇宙を語るについて
僕の苫米地先生の本について買った本のなかで、苫米地英人、宇宙を語るという本が、あります。この本は不思議なことについていろいろとかかれているようにおもいます。
ただ、普通に考えるといろいろと疑問に思うことがあります。
まずインテンショナリティという概念についてです。
苫米地先生は意思が反映されている方がオリジナリティがあって、もしテレポーテーション(おそらくテレポーテーションがあるとしたら量子テレポーテーションだと思う)があったら意思が反映された方にオリジナリティがあり、コピーされたり、量子テレポーテーションをはじめにしたほうはけされなければいけないといっています。
ただこれは超こわいと僕は思うのです。
なぜなら意思の反映うんぬんが重要なのではなく、意識の連続性が重要だと思うからです。
量子テレポーテーションまたはコピーされて、コピーされた側が消されるとしたら、そのコピーされた側は死んでると一緒ではないでしょうか?
おそらくですが、コピーをはじめにしたがわとコピーされてできたがわの間に意識の共有なんてありえないし、共有されてたらマジで意味不明になると僕は思います。共有が起こっていなかったら元のコピーされた側は死んだと同じことになってしまうと思います。
意識の共有がおこっていたとしてコピーや量子テレポーテーション(量子テレポーテーションでは意識の共有なんておこらないと思いますが。おそらく僕の理解では量子もつれから量子テレポーテーションはできるからです)ができたとしたら、消されるのはどちらもこわいので、おそらくコピーがおこったら何人も消されないまま残るようになると思います。
このインテンショナリティという概念は、僕はしらないのですが哲学的議論の一つなのだと思います。
それと未来から過去に時間が流れているという苫米地先生がよく本に書いてあったりする話があります。これは不思議に思うこともあるのでしょうが、苫米地先生も現代分析哲学でもこう考えなければいろいろと不都合が起きるといっていたのでこれは正しいのだと僕は思います。
そんなわけないじゃん!と思う方も結構いると思います。ただ、僕は未来から過去に流れるのは当たり前じゃん!とも思います。
だって自分たちは未来にむかっていきてるじゃん!と思うひともいるもいると思いますが、時だけについて考えれば、自分の過去は後ろのほうに流れていくだけなので当たり前ではないでしょうか?
未来の人についても苫米地先生はいっていますが、これもおそらく思考実験だとおもいます。
ここで最初のほうに書かれている文について苫米地先生の文を引用したいとおもいます。体を失い、情報状態だけになった人類にとっての宇宙というのは、その人が好きなものだけを集めて勝手にストーリーをあげたものです。
その後、そういった人は次第に飽きてきてさみしくなって宇宙を作るとも言っています。
ただ僕はそれについてはふざけんな!と思うのです。未来の人がいてもしそれで宇宙を作ったとしたら超自己中です。
自分だけ散々好きな思いしたくせに、果てはさみしいから宇宙まで作るってどんだけ自己中心的なのでしょうか?
苫米地先生はそれくらわかると思うのでこれはやっぱり思考実験なんだと思います。
それと最後にアプリオリについても、アプリオリというものは苫米地先生は最初から正しいものといっていますが、僕は先験的なものであるという風に理解しています。そしてカントもおそらくですが、カントをまだよんでないので適当なことはいえませんが、カントはそういう意味でアプリオリについて言っているのではないかと思います。
最初から正しいものは不完全性定理などを理解すれば、ないのかもしれません。
ただ、です、アプリオリを最初から正しいものと定義したとして、不完全性定理が数学全般にはたらいたとしても僕には最初から正しいものもあると思います。
それは科学などいろいろなものが最初から正しいのでは?とも思うからです。それについてもいろいろあるのでしょうが、今の僕にはわかりません。
アプリオリを日本語に訳すときにどう訳すのかという問題になってくるのだとおもいますが、僕はやっぱりアプリオリは先験的なものだという風に訳すのがただしいと思っています。
まだまだ、勉強したりないことはあるのでしょうが、間違っていると思う方は指摘してくださると大変たすかります。
苫米地釣り人論!
苫米地英人先生というのは不思議な方だ、なんだかあくどい商売をしているようにも見えるし、なんだかうさんくさいこともいっていたりしていたりする。
ただこの人は釣り人なのだ。宮台先生も策士で女衒みたいな人と言っている笑
それでも、僕は気づいたのである。
苫米地先生はとても良い人であるということに、僕は苫米地先生の本は何冊も買って読んでいるが、はじめはなにいってんのこの人と思うことがいっぱいあった。
でも死ぬほど調べたりいろいろと考えたりするうちにこの人はめちゃくちゃ良い人だということに気づいた。
苫米地先生の本は苫米地先生をうがった目でみると何も良さが見えてこないし、しっかりと読めない。苫米地先生の言い方を借りればスコトーマができてしまうのだ。苫米地先生はどの本も良いことが書かれている。スピリチュアルのように見える本もあるけれど、それも意味はあって書いてるのだと思うけれども、僕の勝手な解釈だが知りたい人は別に教えようと思う。
途中苫米地先生の本を読んでいて金太郎あめのようにみえることがあった。ただ僕のようにそう思うひとも大事なことなので2回、3回言っていますと思えばいいと思う笑
だがしかしいろいろな理由からうそのようなこともたまについている、それも思考をめぐらしてわざと言っていると勝手に思っている。博士も知らない日本の裏という番組の天才会議という回で、宮台先生が何言ってんだこいつとか、なんでこんなことしてるんだと思わせている時点でもう釣り針にかかっているというようなことを言っていた。
この人は釣り人なのだ笑
うがった目で見てしまいとても興味が、良い意味でも悪い意味でもでてしまうということについてもわざとやっていますが、それについてはなんでそうなるかは僕はたぶん理解しているので聞きたい人は聞いてください。
苫米地先生は釣りをしていて、釣り上げてみんなを良い方向に向かわせているのである、僕も今仏教を勉強中だが大乗をしているだけなのだ。苫米地先生は現代的な仏教徒でもあると思う。仏教を勉強したり、脳科学を勉強したりすれば苫米地先生がなにをいってるのか、なにをやっているのか、なんでそういうことをいっているのかがわかるようになる。まだまだ仏教も脳科学も勉強中だが、もっと僕が勉強をすればもっと苫米地先生の言っていることがもっとわかるようになってくるような気がしている。
あれだけ天才的な経歴の持ち主であり、天才的な頭脳を持っている人が間違った方向にむかったり間違ったことはあまりしないだろうと今は思っている。
うそをついていると思うこともあるということについても書いておこうと思う、苫米地先生は本で雷にうたれたことがあるとか謎の中国人に気功を教わったと言っているが、んなわけねぇだろと思う笑
雷にうたれていたらたぶんかなりの確率で死んでいるし、障害ぐらいでるのではないかと思うし、その中国人が謎だったら、苫米地先生ぐらいの方だったら調べたり、聞いたりしてその人がどんな人かくらい知ると思う。
とりあえず僕が思うことは苫米地先生の本は良いことが書かれているので、良い人だと思いうがった目でみずに素直に読め!ということである。せっかく良いことが書かれているのにもったいない!!
ただ理解しづらいこともあると思うし、もっと苫米地先生の教えをわかりやすく伝えられるのではないかと思うこともあると思うので今後、そのことについては気が向いたら書いていきたいと思う。
ただはまりすぎは良くないよと思う。うがった目で苫米地先生の本を読んでもわからないことがあるし、ワークスなど高すぎるものに行こうとするのはお金がかかりすぎる。
そういうことも苫米地先生の趣味嗜好がわかればなんとなく理解できるのだけれどそれも聞きたかったら聞いてください。
お金がかかりすぎるなとおもったら、苫米地先生の教えていることの基本的なことはネットを調べれば出てくるのでそこで調べて読めばよいと思います。
ただとりあえず、どれか一冊興味のある本はあると思うので読んでみたらいいと思います。おそらくかなりの確率で数冊買う羽目になるとおもいますが、それの理由もわかっていますが、話が長くなってきたのでかきません。
最後に僕の希望はあの方は仏教は釈迦派だといっているし、原始仏教についてもかなり詳しいと思うので原始仏教についてだけまとめた本を一冊書いてほしい。
それが僕の希望です。苫米地先生の本を読んで救われたこともたくさんあるので、感謝の気持ちも込めてこの記事を書きました。