苫米地英人宇宙を語るについて
僕の苫米地先生の本について買った本のなかで、苫米地英人、宇宙を語るという本が、あります。この本は不思議なことについていろいろとかかれているようにおもいます。
ただ、普通に考えるといろいろと疑問に思うことがあります。
まずインテンショナリティという概念についてです。
苫米地先生は意思が反映されている方がオリジナリティがあって、もしテレポーテーション(おそらくテレポーテーションがあるとしたら量子テレポーテーションだと思う)があったら意思が反映された方にオリジナリティがあり、コピーされたり、量子テレポーテーションをはじめにしたほうはけされなければいけないといっています。
ただこれは超こわいと僕は思うのです。
なぜなら意思の反映うんぬんが重要なのではなく、意識の連続性が重要だと思うからです。
量子テレポーテーションまたはコピーされて、コピーされた側が消されるとしたら、そのコピーされた側は死んでると一緒ではないでしょうか?
おそらくですが、コピーをはじめにしたがわとコピーされてできたがわの間に意識の共有なんてありえないし、共有されてたらマジで意味不明になると僕は思います。共有が起こっていなかったら元のコピーされた側は死んだと同じことになってしまうと思います。
意識の共有がおこっていたとしてコピーや量子テレポーテーション(量子テレポーテーションでは意識の共有なんておこらないと思いますが。おそらく僕の理解では量子もつれから量子テレポーテーションはできるからです)ができたとしたら、消されるのはどちらもこわいので、おそらくコピーがおこったら何人も消されないまま残るようになると思います。
このインテンショナリティという概念は、僕はしらないのですが哲学的議論の一つなのだと思います。
それと未来から過去に時間が流れているという苫米地先生がよく本に書いてあったりする話があります。これは不思議に思うこともあるのでしょうが、苫米地先生も現代分析哲学でもこう考えなければいろいろと不都合が起きるといっていたのでこれは正しいのだと僕は思います。
そんなわけないじゃん!と思う方も結構いると思います。ただ、僕は未来から過去に流れるのは当たり前じゃん!とも思います。
だって自分たちは未来にむかっていきてるじゃん!と思うひともいるもいると思いますが、時だけについて考えれば、自分の過去は後ろのほうに流れていくだけなので当たり前ではないでしょうか?
未来の人についても苫米地先生はいっていますが、これもおそらく思考実験だとおもいます。
ここで最初のほうに書かれている文について苫米地先生の文を引用したいとおもいます。体を失い、情報状態だけになった人類にとっての宇宙というのは、その人が好きなものだけを集めて勝手にストーリーをあげたものです。
その後、そういった人は次第に飽きてきてさみしくなって宇宙を作るとも言っています。
ただ僕はそれについてはふざけんな!と思うのです。未来の人がいてもしそれで宇宙を作ったとしたら超自己中です。
自分だけ散々好きな思いしたくせに、果てはさみしいから宇宙まで作るってどんだけ自己中心的なのでしょうか?
苫米地先生はそれくらわかると思うのでこれはやっぱり思考実験なんだと思います。
それと最後にアプリオリについても、アプリオリというものは苫米地先生は最初から正しいものといっていますが、僕は先験的なものであるという風に理解しています。そしてカントもおそらくですが、カントをまだよんでないので適当なことはいえませんが、カントはそういう意味でアプリオリについて言っているのではないかと思います。
最初から正しいものは不完全性定理などを理解すれば、ないのかもしれません。
ただ、です、アプリオリを最初から正しいものと定義したとして、不完全性定理が数学全般にはたらいたとしても僕には最初から正しいものもあると思います。
それは科学などいろいろなものが最初から正しいのでは?とも思うからです。それについてもいろいろあるのでしょうが、今の僕にはわかりません。
アプリオリを日本語に訳すときにどう訳すのかという問題になってくるのだとおもいますが、僕はやっぱりアプリオリは先験的なものだという風に訳すのがただしいと思っています。
まだまだ、勉強したりないことはあるのでしょうが、間違っていると思う方は指摘してくださると大変たすかります。